いわし雲

「あれがいわしぐもだよ」と教えてくれたのは、父だった。私がまだ小学校に入って間もない頃だったと思う。めったに出かけない父が珍しく遊園地に行こうと言い出した。そして、何故だったかはわからないが、母を置いて二人で出かけることになり、少し違和感はあったけれども久しぶりの遊園地で、私はかなり浮かれていた。メリーゴーランド、回転プランコ、それにジェットコースターにも乗ってみたいし・・・、と心を弾ませながら考えていた。しかし、父はいきなり「空を飛んでみたいか?」と私に聞き、答えも待たずに私の手を引いて歩き出した。そして、私たちはヘリコプターに乗ることになった。

初めは、耳を劈くようなプロペラの音に多少緊張したが、機体が宙に浮き地面が徐々に遠のいていくのを見ていたら、ちょっとした恍惚感を覚えてとても気持ちが良くなった。自分の住む町がまるでオモチャのように小さくなっていき、きらきらとひかる海だってすぐそこに見える。恐怖感は全くなくなり、私は興奮しながら飽かず下を眺めていた。そんな私に、父は小さな私の手を握りながら、「みてごらん、あれがいわしぐもだよ。」、そう言って、もう片方の手で空を指差した。

父が心臓の病気で入院したのは4年前の夏だった。健康が自慢だった父だが、その2年前に心筋梗塞を起こして一命を取り留めてからは心臓は弱くなっていたようだ。我慢強い父であったが、息苦しさに絶えられなくなり入院することになり、私は都内で別に暮らしていたので、父が入院していた鎌倉の病院には週末毎に通っていた。9月になり退院する予定だったのだが、体調が回復しない為に先延ばしになってしまい、父は気持ちがすさみがちになっていった。母や私が何を言っても否定的にしか捉えられず、かといってそんな父の気持ちもわかるだけにとても辛かった。

大相撲秋場所千秋楽のその日、父は久方ぶりに体調が良く気分も良いようで、テレビを観ながら大好きな相撲の一番一番を批評していて、私は父のそんな話を半分に聞きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。秋の夕空にオレンジ色に染まった鰯雲が浮かんでいた。突然、父とヘリコプターに乗った時のことがフラッシュバックのように鮮烈に思い出され、父にその事を無性に伝えたい気持ちになったのだが、私はただ「おとうさん、外を見て」とだけ言った。父は、「ああ、鰯雲だ。きれいだな。」と言って目を細めた。

その晩、父の発作が起こり、母と私が病院に駆けつけたときには既に意識はなく、再び意識が戻ることもないまま父は還らぬ人となった。

今日、久々に空を眺めたら鰯雲が浮かんでいた。そして、ふと、ヘリコプターに乗ったら普通は下界を眺めるのに、父はなぜ空を眺めていたのかととても不思議になった。その時の父が何を思っていたのかは今となってはわからないが、父親と幼い娘がヘリコプターの上から空を眺めている光景を思ったら、とても穏やかでやさしい気持ちになった。